風通い 花渡り
空を見上げると、綿菓子のような雲が、蒼い空をゆったりと流れていた。
少し気の早い桜が、ひらり、ひらり…と舞い落ちてくる。
苦笑を浮かべ、望美は、その一片を掌に受け止めた。
この小さなひとひらを断ち切った日々は、すでに思い出の中だ。
今の自分の姿からは、誰も、想像できないだろう。
それはみんな…遠い時空の彼方の物語……
ふわり…と花びらを吹き攫う風が、袂を揺らした。
「望美さん。」
呼びかけられて振り返った先には、見慣れた優しい微笑み。
自然と自分も笑顔になる。
「おめでとうございます。望美さん。」
「ありがとう!弁慶さん!!」
柔らかな声と共に渡されたのは、春の花でいっぱいの花束。
周りから、羨むような視線も感じるけれど…それはもう慣れたこと。
「袴姿の君も、とても綺麗ですよ。」
くすくすと笑いがこみあげてくる。
昔は、こんな一言にさえ驚いて頬を染めていたのだと思い出して。
いつしか慣れてしまったけれど…
「望美さん…」
伸びてきた手が髪に触れ、どきり…とする。
揺れる琥珀色した瞳が、望美を映していた。
「弁慶…さん?」
そっと額に唇が触れ、一気に頬が熱くなる。
「ちょっ!こんなところで!!」
慌てた望美を見ながら小さく笑いだす弁慶。
やっぱり敵わないのだと、望美はこっそりと溜息をついた。
「ふふっ、君に渡したいものがあるんですよ。」
そう言って、弁慶がとり出したのは小さな箱。
首を傾げた望美は、不思議そうに弁慶の顔を見上げる。
「これ…は?」
問う望美には答えず、弁慶は手を取る。
ぱか…という微かな音がして開かれた箱。
そこに一体何が入っているのだろう…
望美は目を瞬かせながら弁慶の顔と箱、そして自分の手を見た。
「もう、これ以上は待てませんからね。」
指に触れたのは、ひんやりとした硬い感触。
言葉に気を取られ顔を見上げていた望美は、慌てて視線を下した。
「あ…」
指で、春の陽に輝いていたのは指輪。
それは…婚約の証……
――あ…れ?
不意に過ったのは、違和感。
望美は弁慶の顔と指輪を見比べて首を傾げた。
何かが、おかしい…と。
「どうかしましたか?」
優しい声で問いかけてくる弁慶は、何にも変わらない。
ひらりと舞う花びら。
二人の間を横切った淡いピンクのひとひらを、望美は視線で追う。
――私…何、していたっけ?
辿るのは、すべてが終わってからの記憶。
――確か……
元の世界に戻って来て、高校を卒業して、大学に入って、今日…大学を卒業した。
――ううん…違う。
「望美さん?」
弁慶の声が、遠く聞こえる。
吹き付けた強い風が、咲き始めた桜の花びらを空へと舞わせた。
――違う。私は…弁慶さんと……
綿菓子のような雲が、蒼い空が、桜の色に染められる。
真っ皓な光が、視界を覆う。
「……さん。」
遠く、近く、聞こえてくるのは聞き慣れた大好きな声。
「望美さん……」
答えたくて…
間近で聞いていたくて…
望美は手を伸ばした。
「…望美さん……」
溜息を隠そうともせず、弁慶は大きく肩を落とした。
どっかりと縁に腰を下ろし、猫のように丸まっている姿を見つめる。
今日は、如月とは思えぬ暖かな日差しが降り注いでいた。
そろそろ、梅だって綻び始めている。
……だからと言って……
「まったく…君という人は……」
往診を終えて帰ってきたら、声を掛けても誰も答えない。
どうしたのかと思いながら裏へ回ってきたら、この光景だ。
「こんなところで寝ていたら風邪をひきますよ。」
軽く肩を揺さぶるけれど、起きる気配もない。
ただ…幸せそうに、望美は口元に笑みを浮かべていた。
「望美さん、起きてください。」
呼びかけても、起きようとしない。
それどころか、笑みを浮かべた唇が、弁慶の名を呼んだ。
「いったいどんな夢を見てるんですか?」
長い髪を指で梳きながら、自分も自然と笑みが浮かんでくるのを止められない。
ずいぶんと、心穏やかになったものだと思う。
あの頃は、こんな生活が訪れることがあろうとは想像もつかなかった。
――全部、君のおかげですよ。
この愛しい人との生活も、穏やかで暖かい毎日も、母親と同じ寝相で転寝している幼子たちも。
「望美さん。蒼。翠。」
もう一度名を呼ぶ。
望美が小さく身じろぎした。
「ん……」
薄らと開いた目。
弁慶は、不意に伸ばされた望美の手を取った。
「…………あ…れ?」
数度目を瞬かせ、望美は辺りを見回す。
二十歳を過ぎた女性とは思えぬあどけない表情で繋がれている自分の手を見つめ、その手を視線で辿った先の微笑みに気付いて、そのまま望美は動きを止めた。
「弁慶…さん……」
「はい。」
微笑みと共に返された返事。
望美は、にっこりと微笑んだ。
「おはようございます。望美さん。」
「え……あ…!」
大好きな声を追いかけて、辿り着いたのは愛しい人の元。
――そうだ…
繋がれた手から伝わる温もりを感じながら、望美は自分が夢を見ていたのだと思い当たる。
――私は、京に残って……
自分の隣で寝返りを打つ幼子。
空いた方の手を伸ばし、弁慶のそれと同じ髪を撫でる。
この世界で生きた時間は、元の世界では学校を二つ卒業したのと同じ時間。
思えば、もう、そんなに経つのだ。
「望美さん、どうかしましたか?」
問われて、望美は首を横に振る。
どうもしない。
何処にいたって、自分のいる場所は弁慶の隣だから…
「おかえりなさい。弁慶さん。」
微笑んで、望美は胸の内で考える。
――今年のお誕生日は、何をして驚かそうかな…
蒼い空には綿菓子のような雲。
まだ春には少し早い風が吹き抜けていった。
終