鳴神の日に
雷の鳴る日は、必ずと言っていい程…同居人の帰りが遅かった。
気付かなければ、気にもならなかったのだろうけれど……
気付いてしまったから、生まれた疑惑は少しずつ大きくなってゆく。
「雨降るかなって思ったけど、降らなかったね。」
空を見上げて千尋が言った。
「なんで?」
「だって……」
興味なさそうに問い返されて、千尋は視線を空から隣を歩く那岐へと向ける。
「昼休みに雷鳴ってたでしょ?」
「そうだっけ?」
昼寝していたから知らないと言う那岐に、思わず零れる苦笑。
「そうだよ。傘持ってなかったから、どうしようって思ってたの。」
言って再び空を見上げた千尋。
傾き始めた太陽に、千尋の黄金色の髪がキラキラと輝く。
「上ばっかり見てると、車にぶつかるよ。」
いつまで経っても歩き出そうとしない千尋の頭を、那岐はコツン…と軽く小突いた。
片手に通学鞄、もう片方には買い物袋を提げての帰り道。
肩を並べて歩くのも、いつものこと。
学校帰りにスーパーへ寄って買い物をするのも、いつものこと。
帰る家も一緒。
当然、学校の登下校だって一緒だ。
いつも二人でいるから、クラスメイトなどからはからかわれたりもするけれど、千尋は一緒にいることが当然だと思っていたし、那岐も一緒にいることに疑問を抱いたことはなかった。
――そばにいてあげてください
自分も千尋を守りたいと訴えた那岐に、風早が告げた言葉。
それは、納得のできる答えではなかったけれど、それ以外に方法なんて分からなかったから……
だから、いつも一緒にいる。
「でね……って、那岐、聞いてる?」
幼い頃の記憶を辿っていた那岐の耳に、焦れたような千尋の声が飛び込んできた。
「聞いてるよ。」
「もう~」
聞いていなかったけれど、正直にそう答えて機嫌を悪くされても面倒だと、適当に返事する。
横で膨れっ面をするのが視界の端に見えたけれど、気付かないことにした。
――あれ?
今さっき出てきたばかりの、スーパーの前の道路。
駐車場を出てゆく車の向こうに見慣れた人影を見つけて、那岐は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
「………」
こちらを向いていた千尋は気付いていない。
那岐は、何事もなかったかのように踵を返して歩き出した。
「別に。」
――あれは…家とは違う方向…
どこへ行くのだろう…などと考えながら、なんでもないと答える那岐。
「今日は、確か、風早少し遅くなるんだよね。」
買い物袋を揺らして、千尋が言った。
「そうだっけ?」
もう一人の同居人である風早が遅くなろうが、自分にはあまり関係ないことだと思いつつも、最近気になっている疑惑が首をもたげてくる。
見間違いでなければ、先程の人影は風早だ。
遅くなるというなら、これからどこかへ行くのだろうか?
「お昼休みにメール来たって言ったでしょ?」
「いろいろあるんだろ。教師だし。」
適当に答えて、それでも離れない…浮かんできた疑問。
――でも学校でもないよな…
「たいへんだねぇ…」
素直に、風早への感心の言葉を呟く千尋。
いつもならば、こんな風に言われれば無性に苛々するのだが…今日の那岐にとっては、それどころではなかった。
昼間に鳴ったという雷。
帰宅が遅くなるという風早。
そして、どこかへ向かおうとする…後ろ姿。
色々な、断片的な事が頭の中で形を成そうとしていた。
「千尋。」
急に那岐は足を止めた。
「え?なに?」
「ちょっと用事思い出した。先に帰ってて。」
「え!?」
驚いて振り返った千尋に、鞄と買い物袋を押し付ける。
「那岐!ちょっと!!」
「寄り道しないで帰れよ。」
「重いじゃないッ!薄情者ぉ~!!
抗議の声を上げる千尋を置き去りにして、那岐は来た道を戻るように駆け出した。
雷が鳴ると、必ずといっていい程、風早は帰りが遅くなった。
どこへ行くとも告げず、どこかへと向かった。
それはいつからなのかは分からないけれど…
気付いたら、いつもそうだった。
――一体どこへ行くつもりなんだ?
見慣れた背中が視界に入って、那岐は速度を緩め歩き始めた。
間違いなく風早だ…と思いながら後をつける。
この道は真っ直ぐだから、振り返られでもすれば、後をつけていることは直ぐバレるだろう。
けれど、見付かったら見付かったで直接聞けばいい。
今はとにかく、どこへ行こうと…何をしようとしているのか、それが知りたかった。
――この道は……
真っ直ぐ歩き続ければ、飛鳥へと到達する道。
途中にあるのは、神社か資料館か香具山ぐらいだ。
歴史教師なら、資料館に足を運ぶこともあるだろうけれど、もう締まっているはずだ。
こんな時間にあの辺りの神社や香具山に行くわけないだろうし……
背中だけを見ながら、那岐は考える。
――何、自分から面倒くさいことやってるんだ…
胸中で呟くけれど、足を止めない。
千尋を心配させないため…だとか、理由をつけて自分を納得させようとしていた。
「あれ?資料館?」
山の向こうへ隠れようとしている太陽。
その傾いた陽射しの中、風早は、すでに観光客の姿も途絶えた資料館の前を通り過ぎ、建物の脇道へと入って行った。
よくは知らないが、建物を回った脇に入口があるのだろうか。
単に、閉館後の資料館に用があっただけなのかもしれない。
自分の思い過ごしだったのかと思い足を止めた那岐の目に、香具山へのびる道を進む風早の姿が映った。
――え?
慌てて、再び追いかける。
こんな時間に、山へ何をしに行こうというのだろう……
山へと登ってゆく道。
漸く、風早が足を止めたのは香久山の山口。
不意に、禍々しいまでの不穏な空気が周囲に満ち始める。
陰の気だ…と、那岐は肌身離さず身につけている勾玉を制服の上から握りしめた。
「なんだ?あれは…」
呟きは掠れる。
視線の先…風早の前には、見たこともない奇妙な姿のモノ。
それと対峙する風早が、いつの間にか手にしていた刀を抜いた。
それは、ここではない場所で彼が使っていたもの。
そもそも…此処で持っていることすらおかしいもの。
……生まれた地で彼が振るっていた……もの。
ふと…思い出すのは、あの日の出来事。
* * *
燃え盛る建物。
何も出来なかった幼い頃の自分。
鮮やかな色の衣も、透き通るような白い肌も、輝く黄金の長い髪も、焦げて煤けて……
思わず腕に包み込み、炎から…倒れる木材から、守ろうと必死だった。
「……から離れないで!」
「え?」
炎に照り映えた剣。
覚えているのは、抱きかかえられたこと。
あの場所で最後に見たのは、皓く眩い光。
此処で最初に見たのは、戦の音も燃え盛る炎もない…静かな森の風景。
* * *
那岐は、甦った記憶を払うように頭を振った。
今は、過去を思い返している時ではない。
何が起こっているのかを、確認せねばならない……
一閃する刀。
消え去る異形のモノ。
程なく霧散する、充満していた陰の気。
那岐は、刀を鞘におさめる同居人から視線をはずせなかった。
深く息を吐き、風早は刀をおさめた。
この時間ともなれば、観光客も地元の者も、ここまでは来ない。
ただ、今の戦闘で生じたであろう衝撃と光は、たとえ、近くの資料館に残る人がいたとしても…「稲光」として、認識されただろう。
「たまに…だからいいけれど…」
風早はぽつり…と呟いた。
――いや…たまに…でも困る……
胸の内で呟き、風早はため息をついて、帰宅すべく踵を返した。
「!?」
見慣れた翡翠の瞳、傾く陽を照り返す金の髪。
険しい顔つきで、少年が自分を睨みつけていた。
「なに…してるんだよ」
搾り出すように問う那岐に、風早は思わず動きを止める。
「那岐…」
「答えろよ。」
「千尋はどうしたんですか?」
ここにいるのは那岐一人だと確信して、風早は、彼が傍についているはずだった少女のことを問う。
一人で後をつけてきたのだとすれば……今、千尋は一人きりでいるはずだ。
「アレは何だ?禍々しい気を感じた。」
「…………」
このまま誤魔化されまい…とでもいうように、畳み掛けるように問うてくる那岐。
この様子では、一部始終を見ていたのだろう。
「何なんだって聞いてるんだ」
答えるまでは、梃子でも動かない…といった様子の那岐に風早は溜息を吐いた。
「千尋が心配です。帰りましょう。」
「風早!」
「後で説明します。」
「……」
睨みつけてくる那岐から視線を外し、風早は歩き始めた。
仕方なく、那岐はついて歩き出す。
自分の知らないところで、一体、何が起こっているのだろうか…と思いながら。
* * *
「遅いなあ…那岐も風早も」
他に誰もいない家。
用事がある…と荷物を押し付けてどこかへ行ってしまった那岐が心配だったが、彼が勝手なのは今に始まったことでもないから、諦めて、同時に押し付けられてしまった夕食当番を千尋は片付けていた。
風早が遅くなるのも、よくあることだ。
那岐と千尋の二人の面倒を見ているのだから…それに教師なんて職業をしているのだから、忙しくて当たり前だと思っていた。
けれど……たった一人で待つことは、少し寂しい。
取り残されてしまったような不安感が、暗くなってゆく外の景色に伴い膨れ上がってくるのが嫌だった。
大丈夫だと分かっていても、何か胸騒ぎがする。
何度…立ったり座ったり、外を覗いたりしただろうか……
カタン
聞こえてきた物音。
鍵を、扉を開けるのが聞こえてきて、同居人達の帰宅を知った千尋は、階下へ駆け降りる。
「あれ?一緒だったんだ。」
揃って玄関先に居た二人に、千尋は少し驚いて目を瞬かせる。
「途中で会った。」
「ケーキを買ってきたんです。食後に食べましょう。」
いつもと、何の変わりもない二人の様子に、感じた胸騒ぎは思い過ごしだったと安堵して、風早から手渡されたケーキの箱を受け取ると……千尋は嬉しそうに笑みを浮かべた。
千尋が眠ってしまった深夜。
風早は、前に座る那岐に約束どおり全ての説明を始めた。
「まさか、那岐に後をつけられていたとは……」
苦笑を浮かべる風早を、那岐は胡散臭そうに睨んだ。
「雷鳴ったら、いつもどこか行ってただろ?」
なるほど…と風早は納得する。
「それで、気になって追いかけてきた…というわけですか。」
「で?」
黙って後をつけるなんて感心しませんね…と呟く風早を睨み、那岐が先を促す。
「……正直、何なのかは…俺にも分からないんです。」
返ってきた答えは、那岐には納得できないものだった。
「少なくとも、この世界のモノでないことは確かです。」
「じゃあ……」
ここではない世界から来たものだとでもいうのか…
思いながら風早を見れば、困ったような顔で那岐を見ていた。
「あちらのモノだとも言い切れないけれど……」
軽く目を伏せ、風早は小さく息を吐いた。
「アレが千尋に危害を加えないとは限りませんからね。」
雷が鳴ると現れる異形。
少なくとも、「雷」という前兆があるから、気付いたら直ぐ……できる限り早めに対処していたのだと、風早は言った。
「いつから?」
「…こちらに来て直ぐの頃からですね。」
幼子二人を連れ、この世界に来て数年。
腰を落ち着けて間もない頃から、アレは時折、身の回りに現れていた。
「……なんで黙ってたんだ?」
不機嫌な声で那岐が問う。
きっと、あの夕暮れの中で「守る方法」を告げた頃も、この男は戦いを続けていたのだ。
ならば、どうして、教えてくれなかったのだ…と。
教えてくれていれば、自分だって、持っている力を千尋のために使えた。
「僕じゃ、役にたたない……って言うんだ……」
「違います。」
那岐を戦力として数えたことがなかったわけではない。
彼の鬼道が助けとなる事は、風早自身がよく分かっていた。
けれど……たとえあの世界では稀代の鬼道士だったとしても、この世界では子供に過ぎない。
出来ることなら、千尋と共に…那岐にも「普通の子供」らしく過ごして欲しかった。
そして、本当ならば……何も知らずに、いて欲しかった。
胸の内でそう思いながら、風早が諭すように告げる。
「言い出す機会がなかっただけです。」
「……」
胡散臭げに見遣る那岐。
風早の言を、完全には信用していないらしい。
納得できる説明ではない。
けれど……
「知っちゃったからね。面倒ではあるけど…千尋が巻き込まれる方がもっと面倒だから。」
小さく息をついた那岐が、ぶっきらぼうに告げる。
「仕方ないから手伝ってやる。」
「那岐?」
突然の申し出に、風早は驚いて目を見開いた。
那岐の翡翠の瞳が、風早の金の瞳を射抜くように見つめる。
まだ幼かったはずの子供は、いつの間にか立派に成長し始めていたのだ。
「それに……」
ふい…と視線を逸らして、付け加えるように那岐が言った。
「アンタが雷鳴るたびしょっちゅういなくなってたら、いくら千尋が鈍感でも心配する。」
「分かりました。では当番制…ということで……」
「当番制?」
首を傾げる那岐。
「二人が一度にいなくなったら、それこそ千尋が心配します。」
共闘すれば楽なのだろう。
頻繁に現れるわけでもないのなら、それでも問題ないはずだ。
けれど……
一人前として扱ってくれるのか……那岐は目を伏せて頭をかいた。
「分かった。」
雷の鳴る日は、必ずと言っていい程…同居人の帰りが遅かった。
気付かなければ、気にもならなかったのだろうけれど……
気付いてしまったから、それを共に背負うことにした。
終